本多忠勝 1548年~1610年
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。
上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。
松平氏の三河譜代家臣・本多氏の一族で、本多忠高の長男として天文17年、三河国蔵前(現在の愛知県岡崎市)で生まれる。
幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いで殿軍を努め、
武田方の小杉左近から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛されたことが有名である。
晩年、彼は小刀で持ち物に名前を彫っていた。
その時、うっかり手を滑らせ、指に小さな切り傷を負ってしまう。
忠勝は「わしの命運もここまでか」と嘆き、実際にその数日後に死去した。
これが彼の生涯で唯一の負傷だったと伝わる。

本多忠勝の名言「常山紀談から」
「思慮なき人も、思慮ある人も功名するなり。思慮ある人の功名は士卒を下知し、大なる功名を遂ぐるものなり。」